坐禅で何が得られるの?
坐禅にはどんな効能があるの?
坐禅を続けることでどんな世界が広がるの?
この疑問に対して、飯塚保人先生のポッドキャスト「禅と経営」で語られた内容を紹介してお答えしていきます。
飯塚保人先生とは
飯塚保人先生は経営コンサルタントとして活躍されています。
若い頃に禅のお師匠さんに出会い、興味をもち在家で修行されてきました。
そして、禅の思想を会社経営に活かしてこられました。
その経緯は、ポッドキャストで武勇伝として出てきます。
記事を書くのは
私は15年ほど前から、起床後に10分ほどの坐禅をするようにしてきました。
仕事のことでどうしたらいいのか分からない時、坐って考えていると閃くことがよくありました。
坐禅を続けることで、自分ではどうしようもないことはあきらめて、妄想に引きずられることが減ったと思います。
まあその程度ですが、私にとって起床後に坐禅をする時間をとることは一日をよりよく生きるために欠かせない習慣となっております。
3年ほど前に、飯塚先生のポッドキャストに出会い、飯塚先生の話に「成る程、そういうことか」と感じる部分が多かったです。
それから、飯塚先生のポッドキャストを続けて聴いています。
それでは、坐禅によって開ける世界を飯塚先生の話を通して紹介していきます。
最初にお断りしますと、
禅の世界では、悟りは不立文字(ふりゅうもんじ)ですが、坐禅で得られる世界を、あえて言葉で表すと、
※不立文字 悟りは文字や言葉によることなく、修行を積んで、心から心へ伝えるものだということ。
✔禅の構造
只管打坐(しかんたざ)
↓
身心脱落(しんじんだつらく)
↓
一体一如(いったいいちにょ)
↓
全機現(ぜんきげん)
となるそうです。
この言葉を順に説明していきます。
只管打坐(しかんたざ)
ただひたすら坐禅をする。
坐禅に勝るものはありません。
息とともに余分なものを吐き出す。
頭を使わない、執着しない、こだわらない
仏道をならふというは、自己をならふなり
自己をならふというは、自己をわするるなり
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり
万法に証せられるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
道元『正法眼蔵(しょうぼうげんそう)』
これを頭で考えると矛盾します。
只管打坐で考えるとまったく矛盾しません。
いったどいうことなのか???
【引用】飯塚保人 ポッドキャスト 禅と経営 第171回
だから、いくらポッドキャスト聞いていただいて、私の本を読んでいただいても、坐禅に勝るものはないんだな。
1日5分でも、10分でも只管打坐する。まあ、マインドフルネスですよ。
ロングブレス、息を吐く。これに勝るものはないな。そうすると段々頭からこだわらない体質になるんですね、身体が。
だから、私はお陰様で、人に何を言われても気にしなくなったしね。私は私のアイデンティティーを持って生きるんだと。人に迷惑をかけないで生きて、お役にたちたいなって、自分の自覚のもとに生きている。それは只管打坐のお陰じゃない。こだわらないんだから。
前回も、両忘とかいろんな、結局それ全部、比べるとか、根っこの根っこはこだわりなんですよ。
こだわんない体質を作っちゃえば本当に楽。
全く何にもこだわらなければいいんだから、只管打坐だから。
【引用】飯塚保人 ポッドキャスト 禅と経営 第171回
只管打坐とは、ただひたすら坐禅をしなさいということです。
姿勢を正して坐り(調身)、深呼吸で息を調え(調息)、心を調えていく(調心)。
息を吐きながら、色々なことを忘れていく。こだわりを抜いていくことだと言われます。
他には、
乗馬や営業の話が出てきます。
乗馬は人馬一体。馬と一体になりきる。
営業は只管営業。商品になりきる。
ポッドキャストでは、そういった感覚を覚えることについての話が続きます。
飯塚保人 ポッドキャスト「禅と経営」
171.坐禅をすると矛盾が矛盾でなくなる
身心脱落
大事なことは、身が先ということです。
心を動かすのは身です。
まず、只管打坐する。
坐禅することで、身心脱落する。
こだわらない体質になる。
身心脱落
体をまっすぐに伸ばして、息を吐いていくと、心が調う。
悟りを得る。
【引用】飯塚保人 ポッドキャスト 禅と経営 第172回
だから身と心を全部、ゼロにしちゃうという意味なんだな。
結局それはどういうことかというと、坐禅をしていくということなんですね。
只管打坐と同じで、坐禅をしていくと身と心が脱落しますよと。
こだわらない体質になりますよと。
だから、ここで注意しなきゃいけないのは、身が先なんだよ。
みんな、心って、心を動かすのは身なんだよ。
これしっかり覚えておかなきゃ。
だから姿勢を正して、ロングブレス、息を吐く。
そうすると結果、心が調うんだよ。
調った心が脱落してるんだよ。
脱落身心で。
そうするとまともな判断が常に出来ますよって意味だな。
その、自分が脱落しちゃうんじゃなくて、自分はしっかりいるんだけど心が脱落しているからオープンマインドになりますよって意味ですね。
坐禅を続けて得た感覚
なかなかどうやっていいのか分かんないですね。
ただ、坐っていると、なんとなくこだわんない体質になる。
キリキリしなくなるとか。
胃が痛くないとか。
まああの人はそういう考えでも、俺は違うんだよとか。
なんとなくこう、徐々に、一変にはこないですよ。
で、ある時、なんかパッと輝いて見えてくる、これ悟り、見性っていうんだけどね。
悟ったからって、ずっと悟っているわけじゃないんだな。
すごく輝いてきますよ。やたら嬉しくなったりな。
何故かっていったら、こだわりが抜けた純粋無垢な自己に出会えたら嬉しいよね。
身心脱落した自己だよな。
悟りの体験
あーって、口に出るのも難しいんだけどなんとなくハッピーになっちゃう。
肩の荷が全部降りた。
何か強い、何やったってできそうな気になってくるし。
だけど、それもまた冷めるんだよ。
悟りについては、私には分かりませんが、坐禅を続けることで、こだわらない体質にはなっていると思います。
でも、自分の立場や、子供のことや、お金や、欲望に対する執着はずっとあります。
その執着が、すべて自分の我欲からのものではないと願いたいです。
私には、我欲と身心脱落した自己の目的意識とを分ける線が見えないですね。
ポッドキャストでは、先に引用した身心脱落と悟り(見性)の話を聴くことができます。
飯塚保人 ポッドキャスト「禅と経営」
172.悟りを得た感覚はどんなものか?
後編→ 坐禅の構造 只管打坐 身心脱落 一体一如 全機現【後編】
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